存在論から考えた神についてや、永遠の命の絶対性について色々考える。
著者ザイム
始めにあったもの、それは、無である。
ここで普通の人は、無は何もなく存在でないと考える。
しかし、実は違う!
無は「ない」と言う真とあきらかに違い、れっきとした「存在」なのである。
では、一体何があるのか?
「ない」とは真に「ない」事を意味し、真に世界が「ない」であったなら、何も生じ得なかった。
時も、誰も、心も、神もなく、「ない」その真によって完全完結していて、始まることもなかった。
しかし、「無」の正体は「ない」ではなかった。
「無」は「ない状態」を意味し、すなわち、状態である以上、そこには「時」と「ない状態になっているもの」の本質が存在しているのである。
そして、それゆえ、「無」は「ない」と言う真ではなく、「存在における存在の一様態である。」といえるのである。
そして、この時、2つのとらえ方で見る事が出来る。
ひとつは、自然発生的に世界をとらえる見方と、もうひとつは、神の眠りと目覚めとして世界の本当の始まりをとらえる見方である。
この時、私たちは、次の点に注目しなければならない。
それは、この真が存在であると言う真実から言える事実は、我々は、永遠の中に存在していると言う点である。
永遠と言うものを理解するにあたって、不可解な点は、たとえば、円を描いた時、この円は、永遠を表現するに似ている。
描き始めるにあたって、「始まりの点」は、存在したかも知れない。
しかし、ひとたび描き上げると、その円は、始まりも、終わりもなくなり、
しいて言えば、ここを始まり、ここを終わりとする場所はあるが、ただ単に場所に過ぎず、真の始まりと終わりはなくなると言うところである。
どこから始めても、円は円であり、永遠に続くのである。
ところで、我々は、確かに死ぬ存在である。
そして、寿命も、老いも自分の意思であやつれるものでは、今のところない。
しかし、しかしである。
自分の存在なしに世界は存在しない事も事実であるのだ。
確かに、他人の世界には世界があるであろう。しかし、自分の経験するのは、自分の世界だけである。他人の世界に入ることが出来たにせよ、自分なしにはその世界は存在しないのである。
つまり、世界が自分の前に存在するのは、自分が存在であり、自分が存在し、存在していることを知覚出来る為である。すなわち、存在の原因は自分である事がわかる。
自己とは、存在の原因であり、自己を切り離して存在は成り立たない事がこれでわかる。
さて、それでは、存在が永久不変の真であり、存在が自己の存在なしにありえないならば、我々も、永遠の存在である。
ただその状態が、「無」にある時が多いか少ないかによる。
それではここで、神と存在について、目を向けてみよう。
その前に、まず言葉について整理する必要があるだろう。一口に神と言っても、色々な意味や、ニュアンスがあるからである。
キリスト教においては、世界の創造主を神と呼んでいる。
イスラム教は、その延長ではあるが、絶対唯一なる神を言う。
日本の神は、出来事の背後にあって力を及ぼし、守護している神々であるが、神自らも生じたものであると言う考えに立っている。
仏教においては、神とは呼ばないが、森羅万象を創りたもうたのを仏ととしている。
その他、神々なる神や、地域信仰の対象である神は、居るし、日本などでは、昔の偉人の霊を祀って神のひとりとして祀っている場合もある。
この様な、神々なる神はともかく、存在あるいは、世界の根本となる神あるいは仏と言うものについて考えてみたい。
まず、我々は、存在と言う世界の中に存在している。これが一番最大の枠組みであり、世界である。そして我々は永遠の存在である。
永遠と言う事は、未来に向けても、無限であると同時に、過去に向けても無限である。
しかし、私たちは、おそらく、ほとんど人が、無からの出発であった。
そして我々は、歴史の途中から出現したのであって、0からの出発ではなかった。
つまり、この世も創っていないのにここの世はあったし、他人を創っていないのに他人はいた。そして、親から生まれた。
しかし、私は生きてきて、この人生が、まったくの初めての経験だった気はしていない。
「デジャビュー」つまり、まだ経験していないのに経験した記憶があると言う体験は、世界の多くで報告されている。だからこそデジャビューと言う言葉が日本でも知られているのである。
私の場合のデジャビューは、普通と違って、その場に居合わせた別の人だった記憶を思い出すというものであった。
我々は、無から生まれてきたが、無は存在の一様態であり、無を経験する以前に存在していた状態があったと言うことである。
さて、ここで存在に目を転じる訳であるが、最初にあったものを無とするのは、物事の道理に従って何もない状態を初め、始まりとする為である。
そして、この無にたとえば、点を置いたとしよう。しかし、点は量も何もなく存在を明らかに出来ない。次に線を描いたとしよう。線は、線分を持つが、幅を持たず、真に線なら、姿をなさない。、
この線が結ばれて閉じた時に、面ができはじめて、内と外の違いが出来、識別が生じる。これによって、はじめて、存在は、存在として存在する事が明らかとなるのだ。
普段日常我々が、点や線を識別するのは、その点や線が量を持ち、面をなしている為である。
かように、2次以上によって、存在は存在として存在する事になるが、この識別の識を認める意識が認識であり、この認識によって世界が生じる。
この意識の意には、3つの「ミ」があり、ひとつは、感じる側としての「身」もう一つは感じられる側としての「実」、そしてその実体としての「味」であり、これが意三であり、その実体を意味と呼ぶのである。
話が少々それたが、神が、創造主であり、すべての始まる前からいたと言う考えも成り立たない訳ではないが、
しかし、神が意識ある者であり、時の中に存在する者であるなら、記憶としての自己の根源的始まりを持つはずである。
なお、ここで、言う時とは時間の様な物理的なものでなく、変化の中にある者ならと言う意味である。
もし、変化のないものであるなら、物理の法則のごとく、性質のものであり、者ではない。
また、者であるなら、変化し、成長を伴うものと思われる。ただ、永遠と言う「時」の完全性から考えた時、
無限に成長していくと考えるより、循環を考える方がたやすい。
たとえば、我々が、無限の中に存在しているにも関わらず、想像しうる未来と比べはるかに劣るのは、
我々が、あえてこの時代を選んで生まれてきたと考える方が納得がいく。
高度に発達した、神的存在である自分の本体が、別の次元に存在し、我々は、あえて苦悩の多いこの時代に、あるいは、遊びに
この時代を選んで生まれてきたのではないだろうか?
創造主と言う神である者が居ようが居まいが、我々は常にジャッジされている。
正義が常に勝つわけではなく、常にバランスされていて、それぞれに、見合った楽しみや喜びがある。不条理な事も現実には起きている。
しかし、常にジャッジされていて、バランスが取られ、。耐えきれない苦痛や、苦しみは、通常起こらない。
最悪死ぬ時もあるが、死によって耐えられない苦痛から回避されるのである。
人間の間に限らず、動物の間でも、この見えざる神のジャッジは、働いている。
ライオンが獲物をしとめる時、急所を外さず、しとめるのは、双方の為である。
むしろ人間の方が、拷問によって、極度の苦痛を与えるなど、むごいことを行う。
者としての神が居ようが居まいがこの無言のジャッジは、法則のように働いていて、自然の摂理となっている。
人間においては、この世の創造主が、神かも知れないが、存在と言う世界の精神存在にとっては、
神は、存在そのものの神である必要がある。
しかし、人間として生きている今、神の意図、企図は、非常に重要であり興味深い。
聖書のくだりに、神の事を「ある」と言う方が語られる。と言うくだりがあるが、
これは、神が、存在そのものの意志である事を示していると思われる。
わたしは、クリスチャンではないがキリスト教に関心があるし、応援もしている。
ただ、キリスト教が、日本の神の信仰を、深く理解しないで、神社や仏閣を偶像礼拝と決めつけているのには、残念である。
仏像にしたって、しめなわにしたって、偶像を礼拝しているわけではなく、クリスチャンが十字架を拝むように
対象物としているだけであり、しめなわは、そこを神の霊気の宿る場所として祀っているだけである。
仏像にしたって、それを拝むことで、その像が神のように力を与えてくれると思って拝んでいるわけではなく、
日常、守護していただいている霊力などへの感謝の現れや、慈悲の心を拝んでいるのである。
ここで、私がイメージする神と仏について述べておきたい。
創造主である神は、たとえば、パーソナルであり、顕在意識とすれば、仏は、無我であり潜在意識に相当する。
神(創造主」は、「有る」に属するなら仏は(無)に属する。
神が意思を持つが、仏は、慈悲であり、者の情を司って修正を加え守護する。
神仏そろって、この世が守護されジャッジされる。
この見えざる意思がアラーと呼ばれる絶対神の意思を表現していると思われる。
アラーは決断を行わず結果としてジャッジする。
話は変わるが、キリスト教には、神からの良きアドバイスがある。
「信じなさい」と言う強いメッセージである。神はすべてを知っておられると言う絶対の安心である。
たとえば、自分が、根っからの偽り者であったとする。
しかし、神は、その全てを知っておられるから、賢明な努力さえすれば赦されると、過度に自分を責めずに済む。
もちろん過ちは過ちであるから、改善される事を求められるが、それよりも、その性質が良い結果をもたらす世界に、
済み分けさせた方が、得策である事を神は、知っていてそうされる。
求めなさい!、頼みなさい!門を叩きなさい!と言う積極さは、自分が本当に望んでいるものがあれば、
あきらめないで、求め続けなさいと言う、強いメッセージである。
また、赦しなさい!与えなさい!と言う生き方は、実際に自分を幸せに導いてくれる道標と成りえる。
私は、未だ実践出来ていないが、与えなさいと言う言葉を神を信じて行えたなら神は、与えて下さるだろうと思う。
しかし、誰でも、基本的には自分が可愛いから、痛手を感じる程には与える事が、出来ない。
この与えなさいと言う言葉は、良い人や、苦しんでいる人に限って与える訳ではない。
ここが、難しいところであり、神を信じきるに難しいところである。
誰でも身近な人や、より苦しんでいる人に与えたいと言う、反射的にな心が働く為である。
また、反射的に迫ってくる苦難から逃れたくて、与えることを拒んでしまう。
しかし、聖書で、あるじか、婿が、やってくる時、常に怠らなかった良い乙女は、灯にともす油を持っていたが、
怠った乙女が、油を分けて下さいと言われて、自分の分しか持ち合わせませんと断るくだりがあり、
また、長子の権を、パンと引き換え、末代まで損をしたと言う教えもあるから、
ただ単にだれかれなしに与える事が良いわけでもないのだろう。
イスラム教には、イーシュラーと言う言葉があり、その意味は、神のめすままにと言う意味らしいが、
ありのままに人生を受け入れ、運命のなすままに生きて行けば、神が報いて下さると知っていれば、それで良いと言う意味だろう。
人生は誰彼なしに、知らぬ役割があり、知らずの内にその役割を果たしている。
現在、脳科学によって、幸せは、状況によらず、幸せを感じる幸せ度と言う感じ方の問題である事が判ってきた。
自分の身に起こる事を、全て、自分の幸せのためになると解釈し、不平不満、愚痴を言わず、他人の性にしたり、
自分を恥じたりしないで、今を楽しむことを習慣とするうちに、幸せを感じる幸せ度が上がり、
良い出来事を呼び寄せ、幸せが日常的になる。と言う発見がなされた。
今日まで、宗教が、人々の暮らしを支え、戒めてきた。
しかし現在の宗教の多くが、信者を増やすことや、細かい、哲学的違いに敵対し合ったりしている。
そのどれもが、人間の解釈に過ぎない。死後については、実際に死を迎えるまでは想像に過ぎない。
しかし、自分の信じている世界が死後に展開される可能性は高い。
類は類を呼ぶし、存在の根本原因は、自分であるからだ。
エホバの証人では、死後世界はなく、世の終わりに墓から呼び起されるとしている。
私がまだ、自分が永遠の中にいる事を知らなかったころ、屋上や畑で、空を見上げ、
この幸せなうちに、空に吸い込まれる様に死ねたら良いのにと思った。
そうしたら、幸せそのものと同化し、永遠に幸せに成れると感じたからである。
私は、荒波に飲まれ今日を生きている。つまり、当時の様に、幸せ一杯ではなくなった。
幸せである事に変わりはないが、苦痛や、痛手を覚えてしまい、幸せ一色ではなくなっている。
しかし、そのおかげで、感謝の内に暮らすことを学んだ。
宗教の教えは、どの宗教が絶対と言う訳ではなく、学びの材料にすれば、それで良いと思っている。
月に一度くらいの割合でエホバの証人の方が来られるが、反論もせずに、聴き入っている。
ものみの塔や、目覚めよには、生きる上で良いアドバイスが乗っていたりする。
苦難は、精神的に乗り越えられ事が、大半であり、見えない運命の糸によって救われる。
世界にある苦難に比べたら、愚痴は言えなくなる。
エホバの証人では、この世の苦難や、不幸を、サタンの支配する世界であるがゆえに起こっており、神の支配に変わる時、
これら、苦難や不幸がなくなるとしているが、少々苦しい言い訳に聞こえてならない。
そう言ったストーリーの筋書きが、ないとは言えないが、それより、我々は、別の世界に完全な自己が居て、
より完全な自己を目指して修行をしに生まれて来たか、あるいは、自己が完成した為に、やる事がなくなり、
人生と言うゲームをしに来たか、その様に考えた方がはるかに納得がゆく。
キリストが世の終わりを約束して2千年以上が経過している。
この約束は、時代時代によって果たされるか、死によって果たされるか、とにかく、常に果たされていると考える。
宗教が一つに、定まると言う事は、救われない者達が生ずる事になる。
それよりは、宗教ごとに、済み分けた方が得策であろうし、神や、キリストが、自分の名を広める為にあるより、
全被造物の幸福を願っていると考える方が理に合う。
しかし、キリストを信じる者はその様な世界に、仏教を信じる者はその様な世界に、
アラーを信じる者はその様な世界に死後済み分けると考えた方がより平和的だ。
また、死後、眠りたい人は眠るとしても、死ぬたびに、無に帰して一から始まるのでは、この世で過ごした経験は無意味である。
それよりも、虫が幼虫からさなぎになり、さなぎから成虫になるように、階ていを登りながら成長して行くと考える方が、納得がいく。
この世の正体は命であり命が森羅万象を作り上げ、その生命性を仏と呼ぶ。これは、全ての人の中にある命であり、
主体的に意識が世界を創りあげて行く様を表現し、主体である自己の発達によって世界が生ずる事を表現している。
これに対し神は、構造物を創り、具現的に世界を構築していく創造主であり、人間が、道具や、機械を創るに似ている。
神がいくら、人を想像しても、そこに、主体が宿らなければ、その人に世界は生じない。
しかし、構造がなければ、機能が生じず、この物質界を創る事は出来なかった。
物質界が、創造されるまで、意識は自在にへんげし、道理が生じない。
意識はもうろうとし、事実は確定しない。
昔、世界は天動説で大地であったが、地動説が多勢を占めるようになった。
考える事が、その事実を確定し、もしかしたら、考えによって、大地が地球に変化したのかも知れないし、
生きている者の主体が信じている世界が、その人にとっての事実であり、いつの日か、大地でも、地球でもなく、
ホログラムの世界だと知らされる日が来ないとも限らない。
その世界は、映画「マトリックス」の世界の中で展開されているし、想像が、現実を生み出す原因である。
こびとをみると言う芸能人がやたらと多かったり、UFOも目撃証言が多かったり、現実には、経験している人の数によって、
嘘だと決めつけたり、常識人で居ようとする人も多くいるが、経験した人にとってその経験こそ真実であり、現実であるのだ。
カオスに支配されていた世界は、科学によってロゴスへと向かった。
そしてアカデミックな世界が、常識人の世界で、培われたロゴスを守ろうとする。
しかしカオスの力によって常識を破壊された人間は、最悪、精神病として扱われる。
しかし、理性は、常識を超えて、より深い真実を探求しだした。
常識的である人が、当たり前な人であるが、常識は度々覆される。
幻覚や、錯覚と思う事で、平静を保とうとする人もいるが、幻覚とする根拠は、現実的でないと言うたった一つの言い訳に過ぎない。
全ては、意識によって世界が創られており、誰もが自分と同じ様に意識が働いていて、同じように映っていると思われているが、
アメリカ人と日本人で、音の聞こえ方が違うのが判っているように、自分が見ているのと同じように映っているとは、限らないのである。
自分の目を信じるか疑うか、二つに一つであるが、これらは、その職業によっても変わる。刑事は、幽霊やUFOを信じないであろうが、
それは職業柄やむ追えない事である。ひとりで見たら幻覚で済ませられるが、全員で見たら、その人たちにとっては、現実である。
「マトリックス」は、映画の物語であるが、この世の背後には、何か秘密があるに違いないと、これまでの経験からそう思う。
そしてそれらの秘密は、死んだ後の世界で、判ると信じている。
そうでないなら、この人生が、意味を持たない性である。
ある本で、アセンションと言う言葉を知った。3次元の存在から、4次、5次元の世界へと移行する現象の様だ。
私と同様に、より高度な存在へと移行すると言う考えも、少なくない事が判る。
私の考えでは、元々我々は、一つの神に由来していて、そこから、分かれ出る事によって、霊的に違う存在へと成り分化して行き、
神々なる存在へと変わって行き、霊的あるいは、意識的な存在となり、世界を構築して行った。
人間の祖であるアダムとイブは、そうした存在が、物質的な精神存在を創りだし、聖書による歴史が展開した。
アダムとイブは、動物の様に本能に従ったが、エホバ(ヤハウエェー)に対抗するサタンによってそそのかされ、知恵の実を食べる。
しかし、エホバにしてもそうなる事は、自明の理であったと思われるが、それらは、良い結果を生むものと知っていたからそうしたのだと思う。
その結果、霊的存在である霊たちが、物質的世界を経験出来るようになる。
高次の存在は、低次の経験をする事が新しい経験であるし、また、より成長出来る。
不幸に見舞われる事もある、物質世界であるが、最終的に見て、基本的には悪い事は、起きていないのであり、
全て良い結果へと進んでいる。映画「ターミネーター」の様な世界が現出して、もし仮に、人間が滅び、機械の人間が勝ち残ったとしても、
アナログでは味わえなかったデジタル人間の生活を楽しめる事になり、精神は、物質に依存して滅びと共になくなる訳ではないからである。
我々は現在人間だから、人間の味方をするが、精神や意識は、本来自由で、逆に、自由でない現在の方が不可解であるのだ。
わたしは、以前、アリの巣から、死んだアリを運んで行くアリを見ていた。するとそのアリは、
土の部分から、コンクリートの部分を進んでそこで、その死んだアリをおろした。
その時、「もう、この辺まで運べば良いかと、その死んだアリをおろしたこのアリであった事を思い出した。
だから、自分がいつも人間であるとは、限らないと思える。
聖書でキリストが地面に何かを書いていて、敵が近付いたので、身を隠したくだりがあるが、
その時の経験は、スタートレック「ボイジャー」の様な基地への通信か、暗号を、地面に書いて解いていると言う記憶だった。
時は常にそこにあり、今もキリストは、十字架に掛けられている。それを経験する魂が入れ替わりながら,繰り返されている。
聖書にしるした書き手によってキリストの態度がまちまちであるのは、
普通の人間としてのキリストや、ホロデッキの中の様なキリスト、神を知って確信しているキリストなど様々なキリストが、
書き手によって様々に居たからである。誰も誰かについて本当のその人を知っているわけではない。
自分の世界のその人を知っているだけである。
いろんなその人が居て、自分の知らない自分も存在している。
自分の記憶だけが自分の連続性を知っているわけであるが、身に覚えのない事を言われると、
なぜそんなデマが飛び交うのかと思うが、自分の知らない自分が居ると考える事は、極端であるが、ドッペルゲンガー現象を聴くと、
あり得ない話でもない気がする。量子論か何かで、観察者の居ない時には、複数の動きをしているとしか考えられないと言う事も
言われていて、事が確定するまで、東京にいる自分と大阪に居る自分が同時に存在していると聴いた事がある。
おかしな話で、頭の狂った人と思われるかも知れないが、可能性として考えているだけである。
つじつまが合わない事を、全てうそだと割り切る方が何でも簡単だが、なぜそんな嘘をつく必要があるのかを考えた場合、
別の解釈も必要かと思うからである。
子供のころ、友達に、色々話しをした後、そしたら、こうなのか?と問いただされ、そんな話していないのにそう言われ、
そんなこと言ってないよ!と反論すると二人に今そう言ったやないかと言われた事がある。
また、母と話している時、弱気な発言をしたら、空間が燃えたような気がしておならの様な匂いに変わった。
そして母に屁をしたな!と言われ、自分だけが感じる匂いではないとわかった。
事実を信じて貰えない事ほど残念な事はない。だから基本的に、すぐに嘘だと決めつけないようにしている為、
この様な、突拍子もない考え方をするように成ったのかも知れない。
もちろん騙す目的で話された事は鵜呑みにしないが、何の得もないデマを言うのは、
その人が無意識のうちに、別の自分が行った事を述べてしまったのかも知れないし、
基本的に良いように解釈をするように努めている為、そんな可能性を考えたりするのである。
また冗談で言う時もあるのだが、その思いつきも、知らない自分に由来しているような気がする。
この世は、100人居れば、100の世界がある事になる。
存在の根本原因は、各それぞれの意識によるからである。その事を知っておく事と、神は自分の全てをご存じであると言う事を
知っておりさえすれば、自分を欺かず、極力誠実に勤めてさえいれば、申し訳する事もなく赦されると解釈出来るし、
明るい未来を、信じる事が出来る。
無神論者が神を受け入れないのは、神が自分と同質で、自分の全てが赦される事を知らない為か、
者である神のイメージに対して、畏敬の念をはらえず、宇宙の神秘の方が、神より勝ると神を小さく解釈しているためで、
宇宙の神秘に神を感じているが、人間の言う神のイメージに対抗しているからなのかも知れない。
だから、私は、人間の解釈に染まった人間の組織である宗教には属さないで、離れた所から、神について、考察し、
理解しようと努めるのである。